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傷はぜったい消毒するな 生態系としての皮膚の科学 その2

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       はじめに

     普段何気なくしていることや、皆がしているので特に気にせずにやっていることの中には、よく考えてみると何故それをしているのかわからないものが結構ある。
     例えば「蕎麦(そば)に七味唐辛子」がそうだ。どう考えても、蕎麦の繊細な風味を七味が殺している気がしてならないし、老舗と言われる蕎麦屋の中には七味を置いてないところもあると聞く。七味を入れないと食べられないくらいまずい蕎麦がこの世に存在するかもしれないが、通常の場合、七味をかけることでそばの味が良くなることも風味が増すこともないのである。
     他にも、ワサビを醤油に溶かして刺身を食べたり、蕎麦つゆにワサビを溶かして食べるのもおかしい。ワサビの辛味成分は揮発性のため、溶かすとすぐに辛味も香りも飛んでしまうからだ。辛味と香りが命のワサビなのに、何故わざわざまずくして食べているのか、ちょっと不思議である。
     そういえば、江戸時代の男たちは皆、丁髷(ちょんまげ)姿で歩いていた。何故丁髷をしているの、と江戸時代人に質問しても、おそらく「皆がしているから」という答えしか返ってこなかったはずだ。男なら丁髷だ、と当時の日本人は考えていたと思うが、明治維新後、丁髷廃止例が発布されたわけでもないのに丁髷は速やかに衰退した。「皆がしているから丁髷を結っている」以外の理由がなかったからだろう。要するに、日本以外の国を知らなければ丁髷を結っていない人間を見る機会はなく、その結果、丁髷を結わないという選択肢がなかったのだ。
     「皆がしているからしている」という丁髷的治療は、医学界にもある。傷を消毒する、傷にガーゼを当てて乾かすという治療法である。筆者はおよそ10年前、この「傷は消毒してガーゼを当てる」という治療が、科学的根拠のない単なる風習に過ぎないことに気がついた。医学の基礎研究の分野では、1960年頃から「傷が治るとはどういう現象なのか」について研究が始まり、傷が治るメカニズムが解明されてきたのに、なぜかその知識は研究者の間でしか知られておらず、実際に傷の治療が行われている医療現場には全く伝えられていなかったのだ。偶然にも私は、そういう分野に足を踏み入れてしまった。
     そのような中で私は一人、傷が治るメカニズムにそった治療を始めてみた。とはいうものの、どういう治療材料を使ったらいいのか、それらをどう組み合わせればいいのか、分からないことだらけである。教科書もなければ教えを乞う先人もいない。船出はしてみたものの海図もなければ羅針盤もないようなものだった。どちらに向かったら陸地にたどり着けるのかも分からないし、そもそも陸地があるかどうかも分からない状態だった。
     しかし、そういう手探りの航海を続け、傷の状態を毎日観察するうちに、いろいろなことが分かってくる。こっち行ったら危なそうだとか、これは危険信号だとか、こっちに進めば目的地に着けそうだとか、そういうのが次第に見えてくる。
     その結果、海図らしきものができてきた。それが、筆者が提唱している「傷の湿潤治療」である。「傷を消毒しない、傷を乾かさない」というふたつの原則を守るだけで、驚くほど早く、しかも痛くなく傷が治ってしまうのである。治療を受けた患者さんも驚くが、一番驚いているのは治療をしている当の医師、という治療である。
     従来から行われている傷の治療に比べると桁違いの治療効果があることは明らかなので、それを他の医師にも教えたくなり、インターネットや講演活動を通して治療の宣伝をするようになった。患者さんにとっては「痛くなく早く治る」のはこの上ない福音だし、ケガを早く治すのが医師の仕事なのだから、すぐ治療が普及するだろうと簡単に考えていたのだ。
     だがそれは甘かった。「消毒廃止」に反発する医者が予想以上に多かったのだ。これはつまり、慣れ親しんだ消毒の悪口を言われることに対する反発であり、医師にとっては「消毒をしない治療」ということ自体が受け入れられなかったようだ。江戸時代の人に「丁髷は意味不明の風習だからやめた方がいい」と言ったら反発されるのと同じだろう。丁髷が江戸時代人から切り離せないように、一部の医師にとっては消毒と医療は同義語同然だったのだ。
     私は当初、彼らの反発が理解できなかったが、それは、「パラダイム」という概念に出合ったことで氷解した。彼らの反応は、パラダイムシフトに直面したときに旧パラダイムの専門家がとる典型的な態度そのものだったのだ。その頃から、パラダイムシフトはどのようにして起きるのかについて考えるようになり、それをまとめたのが本書の後半部分である。
     地図に全てが書かれていると思ってしまうと、地図に書かれていないものは目に入らなくなる。そこに山があるのに、地図ばかり見ていたら、その山に気づくことなく素通りしてしまうのだ。
     これは医学にも科学にも当てはまる。教科書に書かれていることは正しい、教科書に全てが書かれていると考えてしまえば、教科書に書かれていない現象が起きてもそれを見逃してしまう。
     しかし、教科書とは所詮、その時代の常識をまとめたものに過ぎない。だから、常識が変わってしまえば、その教科書はゴミとなる。これは、地動説が確立したとき、天動説の知識が無価値になり、天動説の教科書が役に立たない「昔のタワゴト集」になったのと同じだ。
     「そんなのわかりきったことだ」「それは常識だろう」……などという考えを捨て、現実に起きていることを虚心に眺めると、様々なものが見えてくる。実際、医学にしろ科学にしろ、「わかっていること」の背後には膨大な「わかっていないこと」が隠れていて、そこかしこが「知の荒野・知の未開拓地」だらけなのである。
     すでに踏み固められた道を歩くのは楽で安全だし、確実に目的地に着くことができる。しかしその道をいくら早く進んでも、一番乗りになることはできない。一方、荒野を歩くのは難儀で危険だし、第一どこに行き着くかもわからない。しかし、どこかに到達することができれば間違いなく一番乗り、トップランナーである。
     その一例として、最終章では「生物進化の過程から皮膚の力を見直すと」という思考実験を載せてみた。大風呂敷を広げただけの的外れな思考かもしれないが、少なくとも、世界中で誰も気がついていないアイデアである。ものになるかならないかは不明でも、誰も思いつかないことに着いて考えることが楽しいのだ。
     そんな「知の荒野」に遊ぶ楽しさを味わっていただけたら幸いである。

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    葉風 * 読み物(体) * 11:11 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

    傷はぜったい消毒するな 生態系としての皮膚の科学

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        擦り傷をつくれば消毒してガーゼを貼る、切り傷は縫って治す。そんな学校の保健室でも家庭でも、当たり前の医療行為。それが実は科学的な見方からすれば、かえって傷を深くするとんでもない行為だという鋭い指摘から始まり、そのことを認めようとしない金儲けや自らの地位ばかりに目が行き、肝心の患者が見えていない医療界にメスを入れるなど、世界の医学界をぶったぎる様がおもしろいこの本。ここ十数年で科学的な医療を世界的にも提唱されているが、それも他の業界の科学者から見れば吹飯もののいい加減なものだいうことも指摘されてる。
       擦り傷や切り傷、やけど。これらは水道か糖類の入っていない飲み物で傷口を洗い流し、ドラッグストアなどで売られているワセリンを傷に塗り、食品用ラップを巻くか、プラスモイストやハイドロコロイドなどの水分を通さないものを貼ると途端に痛みは取れ、傷の治りも何倍も速く、しかも跡が残りくいという、科学的にも理にかなった治療法なのだ。家庭でも誰でもできる簡単な方法なので、今度傷ができたら試してみたくなりました。
       またこのことを皮切りに、同世代の男女別の肌が男のほうがキレイであることから分かる化粧品の老化促進と有毒性、消毒する行為が実は人間の皮膚に在住する有用な菌を殺してしまう害のある行為であること(例えば切れ痔は化膿しないこと)、何故本当のことが阻害されてしまうのかを天動説と地動説を挙げてパラダイムとパラダイムシフトについて細かく考察されている。
       本当に患者さんを治したいと言う医療関係者や医者を志す人、全国の保健体育の教職員の方々などに特にお勧めします。一般人から見ても、単なる知識を得るものだけじゃなく、組織や多数派の矛盾というものにも考えさせられるものがあるのでおすすめです。
       あらかじめ、このことに理解のある町のお医者を調べておいたほうがよさそうですね。ちなみに、大学病院などの大きな病院になるほど、間違った医療行為からなかなか切り替えられないみたいです。
      葉風 * 読み物(体) * 14:53 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

      安らぎのお産を その3

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          妊婦は粗食でちょうどよい

         妊婦中の食生活はお産に反映します。栄養が十分とれていないと体力がつかず、微弱陣痛になりがちで、貧血にもなりやすいもの。
         貧血になると、お産の際に出血が多くなります。自然にゆっくり進めるお産では、よほど大きい赤ちゃんでない限りは裂傷などで出血が多くなることは滅多にありません。貧血さえなければ、トラブルは起こらないのです。そのためには、バランスのよい食生活を心がけることが大切です。定期検診で来院されたとき「今朝なにを食べてきたの?」と聞くと、コーヒーと食パンと答える人が多いのですが、「そんな食事でお産ができるかいな」と思わず言ってしまいます。
         私のところには自然食のグループの方たちがよくお産に来られます。お話を聞いていると、玄米やヒエ、アワなどの雑穀を混ぜたご飯を食べている人が多い。私の子供時分の食事と同じです。彼女たちには粘りがあり、お産の際にそれがよく現れます。こういう食生活をしている人は微弱陣痛にはなりません。いい陣痛が順調にやってくるし、陣痛の痛みを乗り越える体力もあり、最後までバテずにいきみ続けることができます。
         昔は今と比べものにならないくらい粗食でした。私の記憶では、年に三回、正月とお盆と誕生日にゆで卵が食べられるのが楽しみだったくらいです。牛乳など滅多に飲めるものではありませんでした。その反面、雑穀や海草、地元でとれる野菜、サバやイワシなどの青背の魚、豆腐や油揚げなどの植物性たんぱく質、これらをしっかり食べていました。日本中似たりよったりだったでしょう。妊婦にとっては、これが過食にならずにかえってよかったといえます。
          今では見た目がいかにもドタッとして「身体ができてへんなあ」と思う人がいます。飽食である一方、身体を動かしていないのです。これではお産はしんどい。
         また、野菜を食べなきゃと、生野菜のサラダをたくさん食べる方がいますが、これも考えもの。野菜を生で食べられる量は知れてますし、生野菜を食べ過ぎると身体を冷やしてよくありません。それよりもゆで野菜をおすすめします。
         妊娠中の食事のことでは、アトピーに関する質問もよく受けます。生まれてくる子供がアトピーにならないために、妊娠中から牛乳や卵は食べないほうがよいのか、おっぱいをあげているあいだもこれらの食べ物は避けるべきかといったようなことです。一昔前に比べてアレルギーのトラブルは多いようで、みんな神経質になっていますが、基本的には偏食をせずにまんべんなく食べることが大切です。アトピーの子供に除去食をするという指導も、以前ほどにはやかましく言われなくなってきたようです。
         妊娠中も授乳中も、食べ過ぎは禁物ですが、1日に牛乳は200cc、全卵は一個くらいを目安に、なんでもバランスよく食べるようにしてください。


          予定日は人にはナイショ

         妊娠と分かれば、知りたいのは予定日。
         昔から、妊娠機関は10月10日(とつきとうか)と言ったものですが、これはひと月を28日とする陰暦(月の満ち欠けをもとにした暦)で数えた言い方です。人間の妊娠期間は266日なので、最終の排卵日に266日を足したものが出産予定日となります。女性は毎月1度、1個の卵子を排卵します。この卵子に精子が出合って受精し、妊娠するわけですから、排卵日に266日を足せば予定日が出てくるわけです。あるいは最終月経の第1日から数えるなら280日目が予定日です。
         病院や産院では専用の計算機を使って、最終月経の日から予定日を出しますが、簡単な計算方法があります。最終月経の月から3をひき、引けなければ9を足します。そして月経の始まった日に7を足します。
         たとえば最終月経の始まった日が7月7日であれば、予定日は翌年の4月14日です。あるいは最終月経の始まった日が2月25日であれば、11月32日となりますが、11月は30日までなので翌月に繰り越し、予定日は12月2日となります。
         ただしこれは、月経周期が28日で、しかも規則正しい人に当てはまる計算で、28日より長い周期の人は、これより遅れますし、短い人は早くなります。それに月経周期が不規則な人や、最終月経の日付を正確に覚えていない人がとても多いので、予定日のとおりに生まれることは、むしろめったにありません。
         今ではエコーという超音波の機械で胎児を映し出し、頭から尻までの長さや膝から股間までの長さを測って予定日を推測しますが、この数値も平均値ですから、やはりずれが生じます。
         予定日はあくまで予定であって、それより多少前後しても少しも心配ありません。予定日を過ぎてもお産の兆候がないと、焦りがちになるものですが、人間の身体は上手にできていて、赤ちゃんが出たいと思わなければ陣痛は来ないものです。産まれる時期はかちゃんが知っているのだから、あわてる必要はありません。
         何らかの異常がある場合は別ですが、順調に進んでいて、赤ちゃんの頭もよく下がっているけれども陣痛が来ない場合は、1週間や2週間遅れても大丈夫。それを周りの人たちが、予定日を過ぎたのにまだかまだかと騒ぐものだから、お母さんはかーっとなってしまうばかりで、そんな精神状態はお産にいい影響を及ぼしません。私は、特に初めての妊婦さんには、予定日を人には言うなといいます。ご主人と親さえ知っていればいいのです。でないと、うるさくて仕方ありませんよ。
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        葉風 * 読み物(体) * 20:19 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

        安らぎのお産を その2

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             ご主人と2人でよいお産をしよう

           最近は夫の立ち会い分娩が特別なことではなくなりました。ただ世間の風潮がそうだからと、誰でも彼でも立ち会いをするべきだと強制するのは考えものです。私のところに来られるカップルを見ても、母親教室で熱心に勉強しているご主人もいれば、いやいや連れて来られた様子の人もいます。怖がり屋のご主人か、無口だけれどしっかりもののご主人かなど、会えばおよそ分かるものです。また奥さんのお話からも、ご主人がどのくらいお産に対して理解度があって、協力しようとしているのかがうかがえます。
           お産のときにも、積極的に立ち会おうとするご主人もいれば、そうでない人もいます。どちらかといえば尻込みしているご主人を、むりやり立ち会わせておさんのすべてを見せてしまうと、ご主人が奥さんに性を感じられなくなっってしまってその後の夫婦生活がうまくいかなくなることがあります。
           基本的にはそのカップルの自由にしてもらっていますが、今までの経験から言えば、出産の時にビデオを持ってきてお産の瞬間を撮りたいといわれる積極的なご主人は別ですが、それ以外の方にはお産を露骨に見せないほうがいいようです。大方のご主人には「あのねお父さん、奥さんのお顔のところで手を握ってあげるだけでいいですよ。生まれたすぐに赤ちゃんを見せてあげますからね」と言って、あまり分娩のすべてを見せないようにしています。尻込みしているご主人にはなおのこと、隣の部屋で待機してもらいます。
           産声を聞くだけでも、出産の感動は十分分かち合うことができます。大切なのは、生まれてくる赤ちゃんを2人で愛情を注いで育てようという気持ちを持ってもらうこと。そのカップルにとって最もふさわしいお産はどういうお産なのか、2人で考えてもらい、私たち助産婦もそれぞれのカップルにふさわしいやり方を判断して、臨機応変に対応していかなくてはならないと思います。
           母親教室ではなるべくご主人にも参加してもらい、2人でお産のビデオを見てもらいます。お産の実際をほとんどすべて見せるビデオです。「ここに映っているお産は一番上等なおさんだけれど、奥さんがこの通り進むとは限らないんよ。もちろん、こんなふうにうまくいくと信じて、安産のイメージを思い描いておくのは大事なことだけどね」と言うと、ご主人も真剣にうなずいておられます。やはり男性は、実際のお産を目の前にするとかなりショックを受けるらしく、卒倒してしまう人もたまにいます。だから、立ち会うのならお産の生理や経過をしっかり勉強してほしいのです。
           このように事前にお産の学習しておいてもらっても、実際に分娩に立ち会ったとき奥さんの苦しむ様子を見て「かわいそうに、かわいそうに」とばかり言うご主人には、付き添いを遠慮してもらいます。奥さんがそれに甘えてしまって「しんどいよう、苦しいよう」と言い出すと、自分が産む! という気持ちが萎えていきむ力が出てこないからです。こうなったら、ご主人と離して、私が奥さんを叱咤激励します。
           私はご主人に「お産というのは一面を見ると何も問題がなくバラ色のものだけれど、片面を見ると地獄みたいなもの。それを介助するのだから、ご主人もそのつもりになってね。優しい言葉をかけて汗をふいたりさすったりしてあげることもあれば、愛のむちを打たなければならないときもあるんよ。それがご夫婦というもの。甘えばかりで絶対出産はできないのよ。自分たちの努力によって親子3人が幸せを抱かせてもらうのだから、いい面を見ながら頑張ろうね」と常に言います。思いは通じるという言葉があるように、大丈夫だ、自分はこうしてこうと、ひとつ心に決めると、それに突進するものです。けれどその手前で、何かあったらどうしよう、助産院ではちゃんと処置してくれるのだろうかという不安を持つと、奥さんにもその不安は伝染します。
           2人でお産のことをよく勉強して自分たちなりに研究し、自然出産を理解してお産に臨む夫婦は、2人でとてもよいお産をされます。2人がよいお産をしようという決意をしっかり持てていることと、私と相互の理解がとれてここで産むことに信頼感を持ってくれるからです。
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          葉風 * 読み物(体) * 17:19 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

          安らぎのお産を

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             【目次】

            [第1章]お産の主役はあなたですーー自然なお産をめざして

            ・あなたはお産に何を望むの?
            ・産むのはあなたです
            ・歩いて安産
            ・安産につながった昔の暮らし
            ・腹帯はけっこう役に立つ
            ・ご主人と2人でよいお産をしよう
            ・お産は1回1回違う
            ・定期検診で何を見るかというと
            ・自己管理をお願いします
            ・妊婦は粗食でちょうどいい
            ・予定日は人にはナイショ
            ・妊婦さんとの信頼関係がよいお産のカギ
            ・逆子も自分でなおせる
            ・安産を呼ぶお灸と体操


            [第2章]お産は自然があたりまえーー安産の知恵

            ・自宅分娩が最高だけど
            ・家族で向き合うお産
            ・自然分娩だけと思い込まないで
            ・お産をスムーズに進めるために
            ・お産の進み方を知っておこう
            ・上手ないきみかた
            ・自分の好きな呼吸法で
            ・陣痛は赤ちゃんを生み出す力
            ・いい陣痛を起こす方法
            ・へその緒が巻いていても大丈夫
            ・予定日なんて気にしない
            ・お産の進み方は何で見る
            ・精神作用が大きいお産
            ・赤ちゃんが産道を上手に通れないとき
            ・破水のこと
            ・会陰保護という技術
            ・好きな姿勢でお産を迎える
            ・帝王切開していても大丈夫
            ・42歳の初産婦さん
            ・5000グラムでも自然に産めた
            ・双子妊婦のときは家事をさぼろう
            ・逆子でもふつうに産める
            ・生まれたばかりの赤ちゃんて?
            ・後産がすんでお産は終わる
            ・生まれてしばらくの赤ちゃんのようす
            ・産後すぐのお母さん


            [第3章]よいお産がよい育児のスタートーー子育ての知恵

            ・さあ、おっぱいをあげよう
            ・痛いけど、おっぱいマッサージ
            ・赤ちゃんは泣くもの
            ・赤ちゃんの元気度見分け方
            ・赤ちゃんの寝かせ方
            ・わけわからずのお風呂入れ
            ・出べそは自然に引っ込む
            ・おっぱいを出すコツ
            ・母乳にこだわりすぎるのも考えもの
            ・お母さんが風邪をひいたら
            ・産後のブルー
            ・夜泣きは辛い
            ・上の子のやきもち
            ・赤ちゃんを外に連れ出そう
            ・おんぶは便利
            ・歩き出せばおっぱいはおしまい
            ・子供は親の背を見て育つ
            ・上手にほめて
            ・いっぱい愛してあげて
            ・ゆっくり育てよう
            ・お父さん、お母さん、強くなって!


              あとがき
              付録 全国助産所一覧


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             1922年生まれで長年産婆さんをされた話し手の松田シヅエさん。今まで培った知恵の一端を教えていただける本です。
             貴重な証言本であるにもかかわらず絶版になっていて、図書館でも書庫に入っていて市内にはこの1冊しかないという現状。いつ消えてなくなってしまうかわからないので、全文書き起こししていきます。
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            葉風 * 読み物(体) * 15:22 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

            図解トレーニンク゛ 眼の老化は「脳」で止められた!

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               ドライアイ、緑内障、白内障、老眼、近眼などの見る力が弱まる原因は脳を鍛えればなんとかなる!という本。前に紹介した同じ中川和宏さんの本を図解入りで分かりやすくしたものです。
               実験段階のレーシックをするよりも安全に、自然と自力で出来る視力を上げる鍛え方が載っています。例えば、上向き加減で目をギュッととじて絞り込み(強度近視の方は6〜7割の力でやる)、パッと目を大きく見開いて上を向く、このやり方で下・右・左これを5回繰り返す、といったものや見るだけで眼を鍛えられるものなどが載っています。スポーツをやっている方も眼を鍛えることで伸びるかもしれません。
               そんな中ちょっと気になったところがありました。


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                88ページ
               

               ポイント(1)潜在意識に暗示をかける

               「メガネを外した自分」をイメージする。(繰り返すうちに潜在能力アップ)
              ・朝、起きたらまず「私は老眼がストップする、老眼が改善する」と心の中で唱えながら、老眼鏡を外す自分をイメージします。最後に「これは必ず実現する!」と強く思います。

               「見える!」を口グセにする。(自動的に老眼を止めるプログラムをインプット)
              ・新聞や本を読むときは、まず見える距離で目を閉じ、「見え〜る」と念じ、パッと目を開けます。次に、そこから10センチ手前にし、目を閉じて、「見え〜る」と考えて、パッと目を開けて文字を見ます。ぐっと、はっきりと焦点が合って見えるはずです。


              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

               これは近眼の人にも応用が効くでしょう。
               ここで気になるのが、今まで不合理、非科学的とされた暗示や強く思うことで眼が良くなるとされてるところですね。「痛い痛いの飛んでけ〜」が実は効き目があったと、遅れて科学の分野が認めたように"思いの力”が人を変えていくんですね。戦後になるとそういったものは精神論として片付けられがちになってましたが、心でどういう思いを持つかということは大切なんですね。強く思うことでまず自分自身が変わっていき、周りの人もそれに触発されて変わっていく。つらいことがあっても、「良くなる」と強く思うことが大切なんですね。
              葉風 * 読み物(体) * 18:29 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

              医者が患者をだますとき

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                  (こちらのページより) ※自己判断で一部、太文字や色づけしました。

                 『医者が患者をだますとき 』  
                 Robert S. Mendelsohn (原著), 弓場 隆 (翻訳)


                 【目次】

                はじめに 私は告白する
                序章 現代医学は宗教である


                ほとんどの人たちは、先端医療とはすばらしいもので、その技術を駆使する名医にかかればきっと健康になれると思い込んでいる。けれども、それは大変な思い違いである。医療の当事者である医者、彼らこそが人々の健康をおびやかしている最も危険な存在なのだ。


                第1章 医者が患者を診察するとき

                健康診断は儀式である | いいかげんな機器 | レントゲンによる被曝の儀式 | 医療検査は神のお告げ | 数字に振り回される医者 | 教材としての患者たち | 病気は医者が作り出す | 医者は過激な治療が好き | 健康診断にまつわる幻想 | 医者の基準、患者の基準 | とにかく医者に質問を | 医者からわが身を守るには


                第2章 医者が薬を処方するとき

                抗生物質のウソ | 抗生物質が細菌を鍛える | 医者と薬の危険な関係 | 副作用で死んだ人々 | ステロイドの苦しみ | DES訴訟事件 | ピルは病気を呼び寄せる | 医者は降圧剤を飲むか? | 新薬の怪しいカラクリ | 薬漬けにされる子供たち | 医者と患者と製薬会社 | 医者が薬にこだわるわけ | 「毒性のない薬は薬ではない」 | 薬の作用、副作用 | 薬と仲よくつきあう前に | 薬害からわが子を守るために | 医者の倫理、世間の常識


                第3章 医者がメスを握るとき

                意味のない手術 | 出産に医者がかかわる理由 | 出産は「9時から 5時まで」? | 「医学の進歩」という幻想 | 医者の都合と手術 | 儀式としての手術 | 手術からわが身を守るには


                第4章 病院にいると病気になる

                子供はなぜ病院が嫌いか | 病原菌だらけの病院 | 清潔という落とし穴 | 院内感染を生み出すもの | 取り違えられる患者たち | 栄養失調の患者たち | 病院にいると病気になる | 患者の権利はどうなっている | 病院のほんとうの姿 | 病院からわが身を守るために | 大学病院をめぐる迷信 | わが子を入院させたとき | 患者と付き添いの絆


                第5章 医者が家庭にかかわるとき

                家庭に攻撃をしかけるもの | 出産に介入する産科医 | 母乳とミルクと小児科医 | 小児科式二重思考 | 育児ノイローゼになる母親たち | 保育園と早すぎる独立 | 学校と子供と精神科医 | われわれが失ってきたもの | 医者から家庭を守るには | かげがえのない家族


                第6章 死のための医学

                医者が仕事をしないと病人が減る | 現代医学は生命に関心がない | 死を奨励する医者たち | 老いは病ではない | 慈悲による殺人 | クオリティー・オブ・ライフとは


                第7章 医者というものの正体

                あきれた聖職者たち | いんちきな医学研究 | 自分を治せない医者たち | 恐るべき医学部教育 | 悲しき医学生 | なぜ医者は不正を行なうのか | 医者がかかえる 2つの病理 | 「医者は失敗を棺桶のなかに葬る」 | 「患者に何がわかるというのか」 | 自分の体は自分で守る


                第8章 予防医学が予防しているもの

                病院の倒産を予防する医学 | 予防接種に警戒せよ | 集団接種はひとつのバクチ | 乳がんの集団検診の危険 | 医者は健康とは何かを考えない | 決まり文句は「手遅れ」 | 真の予防医学とは | いま望まれる医学


                第9章 私の考える新しい医学

                「生命」の核心に向きあう | 生命を祝福する医学 | 豊かな人生を送るために | すべては家族から始まる | まわりの人々とともに | 新しい医学の手応え


                おわりに 新しい医者を求めて
                訳者あとがき
                解説 -- 新田国夫 (新田クリニック院長)




                 健康とは何かをいちばんわかっていないのが医者だ。
                現場の医師が現代医学を厳しく批判して全米ベストセラーとなったのが本書。
                診察から各種の検査、薬の処方、手術、入院、医者の習性から医学教育にいたるまで、
                患者の知らない、知らされていない問題点が痛烈なユーモアをこめて明かされる。

                現在の医療の9割がそもそも不要だ。
                健康診断を受けると具合が悪くなる。病気の基準は医者が発明している。
                医者が仕事をしないと病人が減る。病院に行くと病気になる‥‥‥
                などなど、患者の立場に立った貴重な指摘が満載の一冊。


                  【読者のみなさんへ】

                 私は本文中に引用した研究等については情報源に深く言及するのを避けた。
                それは、情報源をいちいち明示すると読者の集中を防げる恐れがあるからであり、
                また、本書が伝えたかったことは、そうしたデータの数値についての議論ではなく、
                読者ひとりひとりの感性に訴える種類のものだからである。     ロバート・メンデルソン


                  【日本語版について】

                 この本の原書は、初版が1979年にアメリカで刊行されたものです。
                基本的に当時のデータを元にしていますが、現在もなお現代医学の底流に存在し続けている根本的な問題の構図を指摘するもので、
                現在のロ本においても示唆に富んだ内容となっています。
                日本語版については、原著作権者の了承のうえで、
                すでに状況が変わってしまっているもの、日米で事情が異なるものについては、
                割愛または訳注による最新情報の補足を行いました。 (編集部)



                  医者がストライキをするとどうなるか?

                「医療による大量虐殺」という言葉がある。これはクエンティン・ヤング博士が唱えたもので、
                医者が組織的に大量の人間破壊を行っているという意味である。

                 現代医学教がいかに猛威を振るつているかは、医者の団体がストライキに入ったときにはっきりと現れる。
                医者が仕事をやめると世の中が平穏になるのだ。

                 1976年、南米コロンビアの首都ボゴタ(現サンタフエデボゴタ)で、医者が52日間のストに突入し、
                救急医療以外はいっさいの治療を行わなかった。
                現地の新聞は、ストがおよぼした奇妙な「副作用」を報じた。
                ストの期間中、死亡率がなんと35%も低下したのである。
                国営葬儀協会は「この現象は偶然なのかもしれないが、事実は事実である」とコメントした。

                 >同じ年、ロサンゼルスでも医者がストライキを決行した。
                このときの死亡率の低下は18%だった。
                カリフォルニア大学ロサンゼルス校で医療行政を研究するミルトン・レーマ−教授が、17の主要病院を調査したところ、
                ストの期間中、手術の件数が60%も減少していたことが明らかになつた。
                そして、ストが終わって医療機器が再び稼働を始めると、死亡率はスト前と同じ水準に戻ったのである。

                 1973年にはイスラエルでも似たようなことが起きている。ストが決行され、
                診察する患者の数が1日65000人から7000人に減らされた。
                ストは1か月間続いたが、エルサレム埋葬協会によると、
                イスラエルでもストの期間中、死亡率が半減したという。
                イスラエルでこれほど死亡率が減少したのは、
                二十年前にやはり医者がストをしたとき以来だったという。

                 この現象について説明を求められた医者たちはこう答えた。

                「救急患者に限って診察したので、労力を重症患者の治療に集中することができたからだ」

                 この発言は、医者が不定愁訴程度の治療の必要のない軽症患者に対し、
                不要な治療をしなければ、人命救助に専念できるということを意味している。

                 医者が救急医療に専念して、不要な医療行為を慎むのは正しい選択だ。
                かねてから私は、医者は永遠にストを続ける必要があると主張してきた。
                医者が医療行為の九割をやめて救急医療にだけ取り組めば、人々の健康状態は間違いなく改善されるはずである。

                知人の医者からこんな手紙をもらった。

                「人々に希望を与え、世の平和に貢献するために、医者だからこそできることとは何だろう」

                私は返事を出した。
                「医者をやめることだね」



                 予防措置を名目に、女性に対して行われているキャンペーンがもうひとつある。
                それは「一定の年齢を超えたら子供を産むのは危険だ」というもので、
                医学界の広報活動によって、そう思い込んでいる人は世間に大勢いる。

                 私が医学生だったころは、「45歳を超えたら子供を産むべきではない」と言われていた。
                それが、研修医のころになると40歳となり、
                さらに専門医学実習生だったころには38歳というように、
                その年齢はだんだんと下げられてきた。

                 出産年齢の上限に制限を加える理由について、医者は「年齢とともに卵子が疲労する」と説明する。

                「疲労卵子症候群」が奇形児の原因になるとでも言いたいのだろう。
                では、男性に「疲労精子症候群」がないのはどうしてなのか。

                 母親の年齢と奇形児の出産に、実は因果関係など認められないのである。
                それどころかジョンズ・ホプキンス大学医学部の研究で、
                レントゲン検査で医療被爆を経験した女性は、レントゲン未経験の同年齢の女性に比べると、
                ダウン症児が生まれる確率が七倍も高いことが明らかになっている。
                この報告の正確さはこれ以外の研究によっても裏付けられている。

                 高齢出産で奇形児が生まれた場合、その原因のひとつは、
                出産するまでに母親が何度も不用意に浴びてきた必要もない樟にあったのである。




                  レントゲンによる被曝の儀式

                 医者があつかうさまざまな医療機器のなかでも、いちばん普及していて、
                しかも危険度においてこれに勝るものがないものといえば、レントゲン装置である。
                だが、危険とは知りつつも、レントゲンがもつ宗教的な意義は大きい。
                医者にとってレントゲン装置と縁を切ることほどつらい別れはないだろう。

                 何しろ自分では見られない体のなかを透視でさるのだ。
                そのレントゲン装置を自在にあやつる医者に、患者が畏怖の念を抱くのも無理はない。
                医者は患者のこの心理を見抜いている。
                それに陶酔した医者は、ニキビが発生するからくりから胎児の成長の神秘まで、
                ありとあらゆる検査にレントゲン装置を使いまくるのである。

                小児白血病が胎児のときの医療被爆つまりレントゲンと深い関連があることは
                すでに実証されていることだが
                、医者はそれには無頓着を決め込む。
                二、三十年前に頭部、首、胸の上部に放射線を浴びた人たちの間で、
                甲状腺機能低下症が何千、何万という単位で発症しているし、
                甲状腺がんは、歯科医のレントゲン検査10回で浴びる放射線量を下回る線量の被曝でも発症することがある。

                 すでに何人もの科学者がアメリカ議会でこう警告している。

                「たとえ低線量の放射線でも、人体に照射すると遺伝子を損傷して、
                現世代だけでなくそれ以降の数世代にわたって大きな影響をおよぼす恐れがある。
                樟は糖尿病、心臓病、脳卒中、高血圧、白内障といった、いずれも加齢に伴う病気の原因になる」


                 がんや血液の異常、中枢神経系の腫瘍の原因が放射線にあると指摘する研究はほかにいくらでもある。
                病院や診療所、歯医者で受けた医療被曝が直接の死因だと見られる死亡者は、
                毎年4000人以上にものぼると堆定されている。

                 こうした死亡と病気による苦痛は、避けることが十分にできたはずだと私は考えている。
                私が医学生だった1950年代においても、すでに胸部レントゲン検査は実際の治療には意味がないと教わった。
                比較的最近の調査でもこれは変わらない。
                マンモグラフイー(乳房レントゲン撮影法)という乳がん検査の診断が正確さを欠くことは、
                実習を受けた医者も何も受けていない医者も同じである。

                 放射線技師による重症患者の胸部レントゲン写真の読影について、ある調査はこんな報告をしている。
                技師の24%の読影がほかの技師の読影と食い違い、
                そして、同じ写真を再度読影すると、技師の31%が以前とは異なる結論を出したというのだ。

                 別の研究では、
                肺に明らかな異常を示す胸部レントゲン写真を正常と誤読した者が32%いたことが判明している。
                専門家の30%が読影について見解が一致せず、
                20%が一度目と二度目の読影で判定が違っていたことを報告する別の研究もある。
                ハーバード大学の研究は、放射線技師によって読影結果が一致しない割合は20%以上だと報告している。

                 レントゲン検査はその危険性と不正確さがいくら指摘されても、
                多くの医者と歯医者の診察室で聖なる検査としていまだにあがめられている。
                毎年数十万人の女性が胸部レントゲン検査を受けるために順番待ちをしているのは皮肉な状況だ。
                マンモグラフィーが乳がんを発見する以上に乳がんを引き起こしているという科学的な証拠は、
                活字となつていくらでも出版されているというのに。



                  意味のない手術

                 二十世紀後半の医学が後世に語り継がれるとき、次の二つのことが必ず話題にされるだろう。

                 ひとつは薬禍である。奇跡とまで称賛されたペニシリンやコルチゾンが薬漬け医療を生んだ。
                そして、もうひとつが手術禍である。
                生身の体を刃物で切り裂く蛮行が毎年数百万例も年中行事のように行われているのである。

                 かつてアメリカ議会小委員会が提出した資料には、国内で行われた手術の実態が次のように報告されている。

                 毎年240万例以上もの必要のない手術が行われ、そのために40億ドル以上が浪費されている。
                術中・術後に死亡する年間25万人にものぼる患者のうち、
                その5%にあたる12000人以上がこうした不必要な手術の犠牲者である。 
                健康調査グループという独立機関の調査では、
                必要が認められない手術は年間300万例以上とされ、
                さらに複数の調査が、その数は全手術の11〜30%を占めていると伝えた。
                私は、手術の九割前後が時間・労力・費用ともに無駄であるばかりか、
                なにより手術そのものが尊い人命を奪う結果になつていると考えている。

                 手術を勧められた患者を調査した研究によれば、
                そのほとんどのケースに手術の必要が認められなかったばかりか、
                調査対象となつた全患者の半数が、そもそも医療処置そのものが不要だったことが判明している。


                 手術で切除された体組織を調べる委員会が結成され、その結果が驚くべき統計となつて発表されている。

                 ある病院では、委員会が結成された年の前年に262例の虫垂摘出術(盲腸の手術)が行われていたが、
                翌年には178例に減少した。そればかりか、その後数年間で62例にまで激減した。
                その結果、「正常な虫垂」が摘出される割合も55%と半減している。
                同様の現象はほかの病院でも見られ、
                委員会の結成を契機に、この摘出手術が三分の二も減少した病院のこともあわせて報告されている。

                 ただ、委員会を構成するメンバーは、いずれも現代医学教を信奉する医者たちである。
                したがって、彼らが効果があると信じて疑わず、しかも頻繁に行われている
                がん手術、冠動脈バイパス手術、子宮摘出術などといった何十種類にもおよぶ手術については、
                この調査の対象にはなっていない。



                   薬の作用、副作用

                 現代では、一度に複数の薬を飲む多剤併用療法があたりまえとなった。
                飲み合わせによる危険性(薬物相互作用)については、次の二つの面からしっかりと理解しておかなければいけない。

                 ある薬は一回の服用で、
                臓器Aに三、四パーセント、臓器Bに二パーセント、臓器Cに六パーセントの確率で副作用を生じる可能性があり、
                そして、その薬と一緒に飲む薬には、
                臓器Dに三パーセント、臓器Eに一〇パーセントの確率で副作用が認められるとしよう。
                そうすると、この二つの薬を何回か併用すれば、
                副作用を起こす可能性はすべての臓器で一〇〇パーセントを超えてしまい、
                患者は確実に副作用で苦しむことになってしまう。

                 もうひとつ、さらに危険なのが、薬の「負の相乗効果」である。
                薬ひとつの副作用が五パーセントの危険性にすぎなくても、
                飲み合わせによってそれが二倍、三倍、四倍、五倍と増幅されていくのだ。

                しかも、その危険性は発症率にとどまらず、強度においても増幅されている。
                服用中の薬を医者に知らせておくことはもちろん大切なことだが、
                多剤併用療法で起こりうる薬害については医者の知識に頼ってはいけない。

                 適応症と副作用が同じ、つまりその薬で効くはずの症状とその薬で起こる副作用の症状が同じという薬がある。
                この種の薬は珍しくはない。
                そのひとつがアメリカで記録的な売り上げを示しているジアゼパムという精神安定剤(抗不安剤)である。
                この薬の医師向け添付文書を見ると、適応症と副作用がほとんど同じであることが一目瞭然である。

                ・適応症 不安、疲労、うつ状態、激しい感情の動揺、震え、幻覚、骨格筋のけいれん
                ・副作用 不安、疲労、うつ状態、激しい興奮状態、震え、幻覚、筋肉のけいれん  
                 

                 こんな薬をどんな基準で処方すればいいというのか。
                この薬を投与して症状が続く場合、いったいどうすればいいのだろう。
                副作用を考えて投与を中止すべきか、効能を期待して用量を倍にすべきかどうなのか。
                この薬を患者に飲ませる医者は、何を望んでいるのだろうか。理解に苦しむところだが…

                ■現在、多くの医者が風邪の患者にもペニシリンを投与している。しかし、ペニシリンが効くのは細菌性の感染症に対してであり、風邪やインフルエンザのようなウイルス性の感染症に投与しても意味はない。

                ペニシリンをはじめとする抗生物質には次のような特徴がある。

                ◎風邪やインフルエンザの罹患期間を短縮することはできない。

                ◎合併症を予防することはできない。

                ◎鼻内部、のどに存在する菌の数を減少させることはできない。

                要するに、抗生物質は風邪には効かないのである。
                風邪やインフルエンザに対する抗生物質の作用というのは、副作用だけである。抗生物質を投与された患者は、発疹、嘔吐、下痢、発熱、アナフィラキシーショック(激しいアレルギー反応を伴う薬物ショック)などで苦しむ。しかも、発疹だけで済む患者はわずか7〜8パーセントにすぎない。単核症(血液中の単核白血球の数が異常に多くなる病気)の患者がアンピシリンというペニシリン系抗生物質を服用すると発疹を起こす確率はもっと高くなる。ペニシリンに対して激しい反応を起こす5パーセントの患者がアナフィラキシーショックを起こし、呼吸困難で苦しむ様子は見るに堪えない。このほか、ペニシリンには、心血管虚脱、発汗、意識不明、血圧低下、不整脈などの副作用があるが、本来、これらはいずれもペニシリンによって治るはずの症状だったのである。


                ペニシリン以外にも危険な抗生物質は少なくない。クロマイ(ク口口マイセチン)は、インフルエンザ菌(ヘモフィルス属の標準種)とするある種の髄膜炎とチフス菌を病原菌とする病気に対して有効な薬である。しかも、こうした病気にはクロマイしか効かないことが多い。この薬には骨髄造血機能を妨げるという致死的な副作用があるのだが、瀕死の状況では、この程度の副作用はやむをえないのかもしれない。

                しかし、子供が単なるウイルス性の咽頭炎、咽喉炎、扁桃炎といったのどの炎症程度のことでクロマイを投与するのはどうだろう。効果がないばかりか、骨髄造血機能の阻害という危険を無意味に冒すだけである。骨髄の造血機能が阻害されれば、多量の輸血をはじめとする処置が必要になる。しかも、患者が完全に回復できるかどうかという保証はない。ところが、なぜか医者はのどの炎症にもクロマイを処方するのだ。

                テトラサイクリン系抗生物質は、外来診療所や開業医に人気の薬である。各種の細菌性の症状に効果があり、副作用も少ないと考えられているからで、子供から各年代の患者に幅広く投与されている。しかし、この薬の副作用は多岐にわたって現れるので、それを知っている医者ならば不用意に処方はしないはずだ。
                この抗生物質の重大な副作用のひとつに、骨と歯に沈着物を形成することがあげられる。骨におよぼす影響を正確に指摘することはできないが、子供の場合、歯に黄色や黄緑色のしみを永久に残してしまう。経験的にそれに気がついている親は数十万人、おそらく数百万人はいるだろう。いくら風邪の症状を軽くしてくれるからといっても、こんな代償を払うのかと思えば、多くの人は服用する気にもなるまい。しかし、ほとんどの医者はそうは考えてはいない。


                ■不幸なことに、医者の多くは、現在でも抗生物質のような強い薬を愚者に投与している。アメリカでは、毎年数千万もの人々が風邪で通院しており、そのほとんどに薬が処方されているが、その薬の半分は抗生物質である。この患者たちは二重、三重にだまされて、現在の医療体制に組み込まれているのだ。風邪にはまったく効きもしない抗生物質を投与されて必要もない医療費を負担し、副作用のために風邪よりもはるかにひどい、時には死に至る感染症を発病して、さらに治療を受けざるをえないように仕組まれているのである。

                医者はその昔、「治癒の代理人」であったが、いまでは「病気の代理人」と成り果てている。現代の医学は濃厚で過剰な治療を軽症患者にまで安易に行なったため、逆に重症患者の治療に対する有効な治療法を低下させて台なしにしてしまった。私を含めて多くの医者がかつて誇りを抱いて携わった奇跡の医療が、現在では患者に害をおよぼす薬漬け医療に堕落したのである。



                  訳者あとがき

                 本書は、Confessions of a Medical Heretic,Robert S. Mendelsohn, Contemporary Booksの翻訳です。
                著者メンデルソン博士は、小児科のお医者さんで、医学部の教官としては予防医学や地域保健学なども専攻し、
                医学と医学教育に多大な貢献をしたとして数々の栄えある賞を受賞したアメリカ医学界の重鎮でした。
                医学界においては相当に人望が篤く、
                数多くの要職に就いて活躍しただけでなく、国際母乳連盟の医学顧問として多くの父母に育児指導を行うなど、
                国民からも広く敬愛されたお医者さんでしたが、残念ながらすでに故人となっています。

                 この原著は、アメリカで三〇万部を超えるベストセラーになっていますが、
                最初に刊行されたのはもう二十年も前のことです。
                医療技術の進歩の著しい現代において、
                こんな前に書かれた本にどれだけの妥当性があるのかと疑問に思われる読者もおられることと思います。
                この点については訳者としても気になったのですが、
                実際に読んでみるとたいへんに興味深い内容で、
                いまもアメリカではロングセラーとなって読みつがれている理由がすぐに理解できました。
                この本には現代医学が内包している危険性の、
                現象的な部分というよりむしろ、さわめて本質的な部分が指摘されているのです。
                さらに、医療の本来あるべき姿についての、時代を超えて当てはまる鋭い指摘が次から次へと書かれています。
                これは、医療技術がさらに進んだ現在こそ、医療の原点に立ち戻って考え直すという意味で、
                より多くの人に読んでいただきたいと確信するに至ったのでした。

                 現在では、さらに多くの問題が新たに生まれています。
                母乳育児についてはダイオキシン等の環境ホルモンの問題が加わってきました。
                また臓器移植や遺伝子治療などの技術が進むにつれ、生命倫理の問題も重大になつてきました。
                アメリカにおいては、現在では本書で指摘されているような濃厚・過剰医療から、医療コスト削減が優先された結果、
                医療の質の低下が問題になつていると聞きます。
                とくに高齢者に対しては、医療放棄ともいうべき事態すら生じているようです。

                 ただし本書は、こうした医療問題の全体を網羅することを目的としたものではありません。
                こうした医療問題の根底にある、時代を超えた構図の本質を浮き彫りにしたものなのです。
                そして、その構図は、じつは現在の日本においてより当てはまるように思われるのです。

                 翻訳にあたっては、原著作権者の了承を得たうえで、
                原書の記述のうちすでに状況が変わってしまっているものや日米で事情が異なるものについては、
                幾人かの現役の医師と相談して割愛するか訳注として補足することにしました。
                ところが実際には、状況の変化によって妥当性を失った記述は少なく、
                多くは現在もなお本質的な問題として存在しつづけているということがわかってきました。
                なかには、関西のある年配のお医者さんのように、
                「著者はキツイ言い方をしとるが、私利私欲に走る悪い医者は日本にもようけおる。
                悪貨が良貨を駆逐せんよう真面目にがんばつてる医者のためにも、
                このくらいのお灸はすえてやった方がええやろ」という激励(?)の言葉をかけてくださる方もいらっしやいました。

                 著者メンデルソン博士は、
                本書でアメリカの医療のあり方をまことに厳しい筆致で批判しています。
                しかし博士の意図は、他の著作で明言していることですが、
                医者の人格を攻撃することにあるのではありません。
                患者の立場に立って、問題ある医療から自分の身を守るための情報を提供することなのです。
                医者が行っている医療行為に、患者が疑問の目を向けるようになれば、
                医者も自分が日ごろ当然のように行っている医療行為について、改めて考え直すようになる− 
                これが博士の基本的な考え方です。
                もちろん、博士は必要な医療まで否定しているわけではなく、
                「救急医療では医者が人命救助に貢献している」とはっきりと評価しています。

                 本書の批判の対象となっているのは、
                「医療先進国」と呼ばれつづけてきたアメリカの医療現場の実態ですが、
                戦後の日本はアメリカの医療技術を生物学的な検証を十分には行わずに礼賛してきましたから、
                アメリカの医学の問題はそのまま日本の医学の問題でもある部分が多いと思います。
                ただ、医療現場となると、医学の臨床的応用の場というだけでなく、
                その国の文化や風土などの影響を強く受けているはずです。

                そこで、日米の医療現場の差について、日本での滞在生活の長いアメリカ人の学者にたずねてみました。
                すると、「あの本は読んだことがあるが、内容的にはむしろ現在の日本の医療現場により当てはまるように思う。
                というのは、日本では医者にバターナリズム(父権的温情主義)の因習が強いし、
                患者もおまかせ医療が当然だと思っている。
                インフォームド・コンセント(十分な説明と同意)だって、ほとんど普及していない。
                第一、十分な説明といっても、その説明が正しいかどうかわからないのに、
                日本の患者は、ほかの多くの患者さんもこの治療法を選択していると医者から言われると、素直に同意する。

                アメリカ人も以前はそうだったが、
                最近では国民の意識がかなり変化して、患者はインフォームド・チョイスできるまで臆せず医者に質問するようになつている。
                現状では、日本人は自分の身体への責任を負うのは自分だという意識がまだ希薄なのではないか」 という厳しい意見が返ってきました。

                ほかにも何人かのアメリカ人学識経験者に聞いてみましたが、だいたい同じような意見でした。
                なかには、「日本人は長幼の序を重んじる礼儀正しい国民だが、
                高齢者が自分の孫のような年齢の医者を『お医者さま』と呼んですがっているのは興味深い現象だ。
                戦後、日本人の信仰心が薄れたとはよく耳にするが、
                ほんとうは、信仰の対象が神仏から『お医者さま』に代わっただけではないのか」 
                といううがった見方をする人もいます。

                 先端医療については日米の時間的な差はそれほどなく、リアルタイムで情報が伝わっているでしょう。
                しかし、現代人はハイテク医療技術に幻惑されて、
                医療の本質である病める人間のケアという根本的な課題があとまわしになっているのではないでしょうか。
                自然治癒力や家族の絆の大切さを忘れ、
                健康な人間ですら病気になつてしまうような危険な医療行弟(過剰投薬、手術の乱発、放射線の多用)を病気の人間に対して行って、
                はたして健康をとりもどせるのか− それが、本書の底流にある博士の主張だと訳者は考えます。

                 前述のように、現状にそぐわない箇所や日米で事情の違う箇所については、
                割愛もしくは訳注による補足を行って、本書の意図するところが日本の読者に伝わるように訳者としては最善を尽くしたつもりです。
                が、まだ至らぬ点が残っているかもしれません。お気づきの点については、読者諸賢よりご指摘いただければ幸いです。


                ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                 (感想)
                 今、日本では医者不足が叫ばれていますが、ちょうどいいのではないでしょうか。緊急医療だけに集中してやれば、お医者さんの仕事にも余裕が出て医療ミスなども防げるのではないでしょうか。
                 アメリカなどでは知れ渡っている無駄な医療行為について日本で知れ渡っていないのは、前に記事にした「血液型の社会史」のなかでもあったように、日本のお医者さんは専門用語がつまった英語の論文を訳するのに精一杯で、その中身や背後関係の審議を見定めることが疎かになっているのではないでしょうか。もしくは、訳しただけで満足して得意になってしまっているのかもしれませんね。

                葉風 * 読み物(体) * 00:29 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

                オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す  その3

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                    からだの持つ「子育ての力」


                   女性として生きるためのさまざまな身体知は、親から子へと確実に伝承されていたはずです。それらの知恵は、果たしてどこにいってしまったのでしょう。

                   最近では、医療の分野でも、本来のからだの持つ力、というものが注目されるようになってきています。今ではさかんに、根拠に根ざした医療―EBM(Evidence Based Medicine)、つまり、それぞれの医療行為には科学的な根拠がなければならない、ということが言われています。たとえば、お産の分野では、医療管理中心のお産よりも、自らの持つからだの能力を生かせるような、自然なお産や自然な子育てを後押しする科学的調査の結果がたくさん出てきています。

                   たとえば、今多くの日本の病院で、生まれたばかりの赤ちゃんとお母さんに「カンガルーケア」ということが行なわれています。カンガルーケアというのは、もともと南米のコロンビアで始まった、未熟児の赤ちゃんをお母さんのふところに入れて肌と肌をくっつけて保温する、という方法でした。このやり方は、未熟児用の保育器が十分にない発展途上国を中心に広がっていきますが、実際にこのケアを体験した母子を見てみると、母親の側は子どもへの思いがよりいっそう深くなり、子どものほうも保育器はいっていた子どもよりも元気に育つことがわかりました。

                   そして「肌と肌を合わせて抱っこする」というこの方法は高く評価され、アメリカでは未熟児以外の赤ちゃんにも適用されるようになったのです。日本で「カンガルーケア」といえば、生まれてすぐに、赤ちゃんの肌とお母さんの肌を触れ合わせて抱っこするケアのことをいうようになっています。そしてこの方法は日赤医療センターをはじめとして多くの医療機関に広がってきています。

                   子どもは生まれてからできるだけお母さんと離さないほうがよい、おっぱいは赤ちゃんが欲しがるだけ、何度でも与えるほうがいい―。新生児室に赤ちゃんを隔離し、授乳時間を決めて、そのときだけ母親と接する、という旧来の母子分離のシステムには、もはや科学的根拠はありません。

                   現在のこういったEBMに基づくような子育ては、どうやら昔の日本女性ならふつうに行っていたことのようです。二〇〇三年の初めに埼玉県の名栗村というところで、調査をしてみました。名栗村は交通のアクセスのあまりよくないところで、今でも電車を降りて一時間以上バスで山道を抜けて、やっと着きます。

                   この村の八十代の方に話しを聞いてみると、子供をできるだけくっつけて、おっぱいは欲しいだけあげて……、ということはみんながほとんどやっているのです。彼女たちは、子どもはものすごくかわいがって育てたとおっしゃいます。いつもいつも抱いているか、あるいは自分が抱けないときは自分のお母さん(おばあちゃん)がおんぶして育てていた。そういう非常に密な肌のふれあいがあったようです。

                   しかも昔の女の人は寝るときはお腰(腰巻き)だけで、上半身は裸の方も多かったそうです。着ていたきものを全部上にかけて、上半身裸で寝ていますので、本当に肌と肌がいつもくっつくような感じで寝ていることも難しくなかったのでしょう。

                   子どもはもうかわいくて、かわいくて仕方がなかったそうです。お産に関して聞いてみると、この村の八十代の方たちは、お産のときは病院どころか産婆さんもいなかったので、ふつう、自分ひとりで産んでいたといいます。お産は女性のからだにとって特別でもなんでもない、当たり前のことで、おなかが痛くなると紐とはさみを用意して、ひとりで産んでいたといいます。産婆さんは、逆子のときなど、どうしても助けがいるというときに、呼びにいったものだそうです。

                   母乳哺育に関しても、何も問題はなかったそうです。食事もいい食事じゃないし、食べていたものは今と比べると本当に質素なものだったけれど、おっぱいなんかみんな出てました、おっぱいはこんなにぱんぱんに張ってたし……とおっしゃいます。今は多くのお母さんが母乳育児で悩んでおられるのですが、この方たちのころはほとんど問題なかったのです。

                   ところが、この現在八十代のおばあさんたちは、自分たちがやっていたことは次の世代はやっていないですよ、と言います。七十代の方たちは「ずっと赤ちゃんをくっつけて育てて……」ということはしていないのです。名栗のおばあさんによると、八十代と七十代では全然違うのだそうです。

                   八十代のおばあさんたちが言うには、「病気で入院したときも、八十代のおばあさんと七十代のおばあさんでは、見舞いに来る家族の対応が違う」のだそうです八十代のおばあさんのところにはお子さんもほとんど毎日のように来て、孫が来てもずっと離れないでいるけれど、七十代の人の家族はちらっと来たら、もう次は一週間は来ない。非常に冷たいのよ、と。それは、やっぱり次の世代は私たちみたいに子どもをかわいがって育ててこなかったからだと思うのよ、とおっしゃいます。

                   もちろんこれはこの村の方の印象にすぎないのかもしれませんが、少なくとも名栗において、八十代と七十代の子育ては違う、と思われていることはよくわかるように思います。

                   そこで「ではどうして変わってきたんでしょうか」と聞くと、八十代のおばあさんたちはこともなげに「それは病院でお産をするようになったからでしょう」とおっしゃいます。家でお産してたときはこうやってずっと赤ちゃんとくっついていたけど、病院に行ったら、赤ちゃんもあっちに連れていっちゃうし、粉ミルクもあげるし、そのせいでしょう、とさらりと言われるのです

                   名栗の出産子育てと言うものは、このように八十代と七十代でずいぶん異なります。ちょっとイメージしにくいと思いますが、今九十歳と言うのは大正三年(一九一四)生まれです。昭和元年(一九二六)の生まれが七十八歳です。昭和十年(一九三五)の生まれが今年六十九歳(二〇〇四現在)なので、今の六十代、七十台というと戦後子育ての世代です。ですから戦前に子育てをした人はもう八十代になっています。子育ての仕方では、八十代と七十代とで、つまり戦前と戦後とで大きなギャップがあるのです。

                   「受けとめる存在」としての母親が、だんだん変わってきたのもこのあたりからだっとのではにでしょうか。


                  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−

                   

                  ◎お産について西洋化または近代化は、する必要がなかったものだったみたいですね。 
                   そういえば。僕には妹が二人いるのですが、上のほうの妹は小さい頃からわがままっぷりがひどく、しばしば兄妹ゲンカをしたり遊び相手として下の妹の取り合いをしていました。今思えば、上の妹は生まれたとき未熟児で、長いこと保育器の中で過ごし母親の肌にあまり触れていなかったのでああなったのかなと、強がっているけどさびしそうな顔を思い出しました。

                   生まれてすぐのころ。一番母親に守って欲しい時に触れることさえもできず、外からは他の保育器に入っている子の泣き声ばかり…。母親も生まれたばかりの頃はあんなに愛おしかったのに、肌と肌を合わせていなかったためなんだかだんだん赤ちゃんの泣き声がうるさく聞こえるようになってきた…。悲しいことです。

                   ユダヤ教やキリスト教を基にした西洋の考え方というものは、からだで考えることがなく、頭でばかり考えたものだなぁと思いました。

                  葉風 * 読み物(体) * 22:29 * comments(0) * trackbacks(0) * - -
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