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陥没する世界のなかでの「しあわせ」論 その2

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      はじめに 日本の若者たちよ、「駝鳥の頭」を持つなかれ

     日光東照宮に「見ざる、言わざる、聞かざる」の「三猿の図」が彫られています。見難い物事を目にするな、偽りの言葉を口にするな、悪しき風聞を耳にするな、と教えているわけです。しかしその訓示は、半面の真理を告げているにすぎません。「真善美」に近づくには「偽悪醜」の何たるかについても見当がついていなければならないのです。不快や不信や不安の種となる事柄についてもまっすぐに見つめ、素直に口にし、素早く耳を傾けるのでなければ、世間に流行している紋切型の(偉そうにこれが真善美だと僭称する類の)綺麗事に人はなれきってしまいます。人間は大方、そんな程度の存在にすぎません。
     そして流行になびくものは、そのうち、「駝鳥の頭」を持つに至るでしょう。この世には紋切型の振る舞いでは対処できないような危機が出来(しゅったい)するものなのです。そういう危機に直面すると、駝鳥は、砂地に頭を突っ込んで危機から逃れたと思いこむそうです。それとおなじく、「見ざる、言わざる、聞かざる」の挙に出て、危機から遠ざかった気になるものが少なくありません。
     今の世界は、もちろん日本のことを含めて、かの「全般的危機」よりももっと深刻な、「根本的・危機(ファンダメンタル・デンジャー)」に見舞われております。第一次大戦後の1920,30年代の世界は、経済における不況・恐慌、政治における動乱・革命、文化における混迷・虚無に襲われていました。そのあげくに、ロシア・ソーシャリズム、イタリア・ファシズム、ドイツ・ナチズムと言った全体主義的な社会を生み落としたのです。
     その全体主義の引き起こした世界史の状況が全般的危機とよばれていたわけです。ファシズムやナチズムは、第二次大戦において、その大戦に勝利したがわ、つまり「連合国(アライド・ネーションズ)」の自由民主の理念によって一掃されたと考えられてきました。そしてスターリニズムは、民主主義の仮面をかぶって連合軍の一翼を担ったため、その崩壊にはさらに45年を要する次第となったわけです。
     ところが、その勝利せる自由民主主義が、60余年のちの今、経済にあってはマモニズム(拝金主義)、政治にあってはポピュリズム(人気主義)、文化にあってはピュエリリズム(幼稚主義)に、頭のてっぺんまで漬かってしまっているのです。そういう社会が「大衆社会(マス・ソサエアティ)」とよばれます。この21世紀初頭、ロシアや中国といった全体主義の体制を色濃く残していた国々までもが、独裁政権の指揮の下に、大衆社会にのめり込んでいる始末ときています。
     その結果、社会の土台ともいうべき国民の歴史的常識がほぼ完全に流出させられ、また社会の地盤ともいうべき風土の自然的環境がとことんまで破壊させられています。それが多くの国家の現状なのです。歴史という土台が崩壊し、自然という地盤が液状化すれば、社会は陥没します。社会陥没を招く大衆社会、という無残な現実を目の当たりにすれば、誰しもそれに根本的危機の形容を与えたくなるのではないでしょうか。
     「歴史と自然」が何かと保全されていれば、社会階級(および階層)間の争い事もそこで生じる社会改革の揉め事も大過なしにすむでしょう。つまり、それらの(一般に革命とよばれる)大改革の騒ぎは社会は傷つけることが少なくないものの、社会そのものを崩落させるまでには至らないのです。しかし「歴史と自然」が大揺らぎとなっているさなかで改革騒ぎを演じつづければ、社会陥没を加速させるだけに終わります。平成日本はまさにそうした改革騒ぎの愚行を天下に見せつけたのでした。それよりもいっそう大がかりな愚行が、アメリカ証券市場の賭博めいた投機行動として演じられたことはいうまでもありません。
     今の若者達は、その過程で生まれ育ったのです。ヴァンダリスト(文化破壊の野蛮人)たちよ、何の理由があってかくも惨めな社会を我々に押しつけたのか、と自分らの父祖にたいして不平不満を鳴らす権利が現在の若者たちにあろうというものではありませんか。
     資本主義社会におけるマネー(貨幣)、民主主義政治おけるポピュラリティ(人気)、大衆主義文化におけるファッション(流行)、それらは全て、元来は人々の交易・交話・交際のメディア[媒体]として機能していたものにすぎません。その媒体にすぎなかったものが、とうとうフェティッシュ(物神)になりおおせたのです。「物を神とみなして崇める」精神の病理としてのフェティシズム(物神崇拝)、それが世を覆っています。そして、人々が拝金主義、人気主義、流行主義の邪教徒となるとき、「メディアが人を食う」の光景が現出するのです。
     15世紀から16世紀にかけて、イギリスにおける(土地の)第1次「囲い込み(エンクロージャー)」運動では、「ヒツジがヒトを食う」(トーマス・モア)有り様でした。ヒツジの放牧のために農民の歴史的かつ自然的な共有地が奪われていったということです。17世紀に入れば、主としてアメリカ大陸の銀とアジア大陸の胡椒をめぐって、西欧諸列強が資源・領土の国際的な争奪戦に入りました。そして、「ヒトはヒトにたいして狼である」(トーマス・ホッブス)という「自然状態(ステート・オブ・ネーチュア)」が、国際社会のみならず、それぞれの国内社会にも広がったのです。
     そうした経緯において資本主義経済が確立させられてきました。そしてそこで次第に強まってくるフェティシズムの空恐ろしさを描いた物語、それが(18世紀中葉の)『資本論』(カール・マルクス)なのです。この書はマルクス本人の意図した科学としては間違いだらけです。しかし、物語としてはなかなか出来のよいものです。つまり、マネー・フェティシュ(貨幣物神)に人々の精神が吸い取られたなら、社会が歴史的かつ自然的な「公正(フェアネス)」をいかに失っていくか、をこの書は述べ立てています。ヒトをモノと化すほどに商品化が進むときに何が起こるでしょう。ヒトにたいするどんな搾取も疎外も、加害者と被害者の双方が同意した自発的交換の結果だ、と偽装されるのです。それが、経済の市場的交換で言えば、効率性という名の正当化の基準となっております。
     現代の危機はまさに根本的(ファンダメンタル)なものです。「貨幣と人気と流行」が大暴走の果てに大敗走しはじめています。そのスタンピード(牛の群れが、銃声1発で、群れをなして逃げまくる有り様)が政治と経済と文化を破壊しているだけではありません。破壊は、社会という名の家屋の土台(としての歴史)と家屋の地盤(としての自然)にまで及んでいるのです。
     ところが、その大敗走による大破壊に対して警鐘を鳴らすべき立場にあるはずの政治家や知識人が、その自体を大改革などと読んで大歓迎しております。根本的危機に対するこの根本的無知、それこそが現代の危機の最大因といえましょう。陥没しゆく家屋のなかでドッタンバッタンの改革騒ぎを演じれば、その陥没が早まるばかりときまってるのです。
     第1次対戦後の全般的危機に対して試みられたのは、社会内部におけるパワー(権力)の配置を大転換させることでした。ソーシャリズムは労働者階級に、ファッシズムとナチズムは中産階級に権力を(資本家階級と妥協しつつ)握らせたのです。それらの(権力構造の大変革としての)大革命が、独裁政治を通じて、スターリン、ムッソリーニそしてヒットラーといった最高指導者を産み落としました。それら独裁者への個人崇拝という政治的幼稚性に、敵対党派への粛清という政治的可逆性が伴ったことについては、あまりにも周知のところですので触れません。ここで指摘しておきたいのは、そうした社会革命は、現下の根本的危機にあっては、おそらく不可能に違いないということです。
     というのも大変革による進歩という(1789年のフランス革命に始まる)近代的革命の思想と実践そのものが、今音を立てて進行している社会陥没の原因なのだ、とすでに判明しているからです。実際、この列島の平成改革なるものが見本であるように、ほとんどあらゆる改革が、成立の直後から失敗をさらすという顛末でした。
     それもそのはず、改革にも改善と改悪があります。その善悪を区別する基準は貨幣の収益率によっても人気の投票率によっても流行の普及率によっても与えられません。その基準は、おそらく、「自然と歴史」を安定的に持続させるにはどうすればよいかということを、現代人の精神の奥底まで突き刺さるような真剣さと鋭利さで思索し論議するなかで、得られるものでしょう。現代の知識人は、おおむね、その作業を遂行するには不誠実であり過ぎ、臆病であり過ぎ、また鈍感でありすぎる、というほかありません。
     今はそんな時代ですから、早めに鬼籍に入る老人のほうが仕合わせだ、とひとまずいいたくなります。しかし老人たちは、根本的危機のなかでこれから長々と生きなければならない若者のことが気がかりでならないのに、未来に関する楽観的な展望をいささかも持つことはできないでいるのです。その点では老人の不仕合わせもまた深刻味を帯びつつあるといってよいでしょう。
     本書で語ってみるのは、若者たちを取り囲み若者たちに差し迫って来る危機が前代未聞に根本的なものであるため、若者たちはかつてなく根本的にその危機について感受し思考し対応しなければならないのではないか、という一老人の訴えかけであります。
     思えば、人間だけが、おのれの死を意識せざるをえないという意味での危機感を、抱くことができるのです。一人の人間の生に限らず、あらゆる文明の生もつねに「危機としての生」なのだといわなければなりますまい。おのれらの危機としての生について、生の行いのただなかで考えつづけること、これが生の根本条件だということです。
     この根本条件を剥き出しにするのが現在の根本的危機だとみなせば、生きるのにまたとない面白い時代、思想にとって大いに魅力のある時代、それが今だ、といえなくもありません。若者たちに是非ともそうかまえてもらいたく、ここに筆を執ってみる次第です。
    葉風 * 読み物(思想) * 15:17 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

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