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友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル

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    評価:
    土井 隆義
    筑摩書房
    ¥ 798
    (2008-03)
    2008年製のいわゆる若者文化論
    恐い
    駄本。

      【目次】

     はじめに
     『野ブタ。をプロデュース』の世界/教室はまるで地雷原/本書の構成

     第1章 いじめを生み出す「優しい関係」
     繊細な気配りを示す若者たち/友だちとの衝突を避けるテクニック/立場が入れ替わりやすい現代のいじめ/消えた観客層の生徒たち/無関心層の自覚されざる利得/浸透していく「優しい関係」の重圧/いじめを遊びのモードで覆う理由/つながりあうネタとしての少年犯罪/個性化教育の意図せざる結果/「大きな生徒」となった教師/若者はなぜ「むかつく」のか/「優しい関係」を傷つける「KYさん」/見当違いな「規律の乱れ」言説

     第2章 リストカット少女の「痛み」の系譜
     高野悦子と南条あやの青春日記/自分と対話する手段としての日記/ウェブ日記を書く若者たちの心理/自分をつなぎとめる思想と身体/若者の対抗文化と世代闘争の消失/抽象的な他者と具体的な他者/それぞれの自傷行為が語るもの/「変わりゆく私」から「変わらない私」へ/人間関係における二つの息苦しさ/「自律したい私」から「承認されたい私」へ/束縛感と浮遊感をめぐる生きづらさ/日記に書き込まれた「本当の自分」/「より望ましい自分」をめぐる格闘
     
     第3章 ひきこもりとケータイ小説のあいだ
     「自分の地獄」という悪夢/「優しい関係」という大きな壁/コミュニケーションへの過剰な圧力/脱社会的な純愛物語の大流行/純度100パーセントを願う若者たち/生まれもった純粋さへの憧れ/「善いこと」から「いい感じ」へ/「純粋な自分」というパラドクス/「分かりあえない」を前提とした関係/遮断されるコミュニケーション回路/「まなざしの地獄」の新たな位相/まなざしの不満、まなざしの不安/自分を見つめてほしい若者たち
     
     第4章 ケータイによる自己ナビゲーション
     ケータイはもはや電話機ではない/「ふれあい」のためのメディア/触覚器官としてのケータイ端末/身体性を強調するコミュニケーション/リセット可能なネット上の関係/ケータイ・メールによる地元つながり/自己認識のための常時接続ツール/不安の強さが生み出す過剰反応/「優しい関係」に孕まれたジレンマ/ジレンマを克服するケータイ空間/メールでつながる「本音の関係」/自己承認をケータイする若者たち/プロフという自己紹介サイト

     第5章 ネット自殺のねじれたリアリティ
     ネット集団自殺がみせる不可解さ/現実世界のリアリティの希薄さ/相対化の時代の絶対的な拠り所/死のイメージをまとうゴスロリ少女/現実回帰のためのトラウマ物語/人間関係の多元化とリアリティの喪失/市場化するコミュニケーション能力/リアリティの確保をめざした内閉化/現実らしさを阻害する「優しい関係」/自己期待値の高さと自己肯定感の脆さ/自殺衝動でつながった高純度の関係/「スタジオの観客」と「泣き女」/現実世界とネット世界の融合/ネット空間へ染み出す「優しい関係」

     おわりに
     「自分らしさの檻」からの脱出へ/生きづらさと正面から向きあう/比類なき「優しい」人びとの時代


            ・   ・   ・

     はじめに

     『野ブタ。をプロデュース』の世界

     文藝賞を受賞した白岩玄の小説『野ブタ。をプロデュース』は、学校という閉鎖的な日常空間において、今日の高校生たちが繰り広げる人間関係の駆け引きと、その繊細な心理のあやを巧みに描いた作品である(河出書房新社、2004年)。登場人物に多少の変更が加えられたものの、テレビでもドラマ化されて大ヒットした。主人公の修二は、転向してきたいじめられっ子の生徒をキャラの巧みな演出によって人気者へとプロデュースしていく。しかし、その過程で自らのキャラの演出のほうが疎かになり、いつしか自分だけが周囲から浮いてしまう。
     キャラの演習を心がけているのは修二だけではない。クラスメートの多くは、お互いの人間関係を円滑にこなしていくため、日々の自己演出に余念がない。絶えず場の空気を読みながら、友人とのあいだに争点をつくらないように心がけている。そこには、異様と思えるほど高度に配慮しあう若者たちの姿と、そのためのお互いの反感が表に出ないように押し込められ、人間関係の重圧感がひしひしと増していく様子がリアルに描かれている。
     親友とは何かと問われたとき、従来なら、お互いの対立や葛藤を経験しながらも、訣別と和解を幾度も繰り返すなかで、徐々に揺るぎない関係を作り上げていけるような間柄と答えることができただろう。しかし、この小説に登場する若者たちのあいだでは、その人間関係が決定的な打撃を受けるクライマックスの瞬間まで、お互いの対立点が表面化することはない。これは、従来の友人関係とは原理を異にしているように思われる。
     『野ブタ。をプロデュース』に描かれているような対立の回避を最優先にする若者たちの人間関係を、本書では「優しい関係」と呼んでおきたい。それは、精神科医の大平健が指摘するように他人と積極的に関わることで相手を傷つけてしまうかもしれないことを危惧する今風の「優しさ」の表れだからである(『やさしさの精神病理』岩波新書、1995年)。それはまた、他人と積極的に関わることで自分が傷つけられてしまうかもしれないことを危惧する「優しさ」の表れでもある。いずれにせよ、かつての若者たちにとっては、他人と積極的に関わることこそが「優しさ」の表現だったとすれば、今日の「優しさ」の意味は、その向きが反転している。


     教室はまるで地雷原
     
     現在の若者たちは、日本青少年研究所の所長である千石保が「マサツ回避の世代」とも呼ぶように、「優しい関係」の維持を最優先にして、きわめて注意深く気を遣いあいながら、なるべく衝突を避けようと慎重に人間関係を営んでいる(『マサツ回避の世代』PHP研究所、1994年)。しかし、このようなお互いの相違点の確認を避ける人間関係は、その場の雰囲気だけが頼りの揺るぎやすい関係でもある。だからそこには、薄氷を踏むような繊細さで相手の反応を察知しながら、自分の出方を決めていかなければならない緊張感がたえず漂っている。
     このような人間関係の息苦しさは、ある中学生が創作した「教室はたとえて言えば地雷原」という川柳にも巧みに表現されている。しかし彼らは、その人間関係から撤退する選択肢を持ちあわせていない。なぜなら、例え息苦しいものだとしても、その人間関係だけが、彼らの自己肯定感を支える唯一の基盤となっているからである。
     かくして彼らは、教室のいたるところに埋設された地雷を踏むことのないように細心の注意を払いながら、お互いの配慮の視線を更に繊細なものへと高めていく。お互いの反感が露呈してしまわないように、対立の要求を徹底的に排除しようとし、さらに高度な気遣いをともなった人間関係を営んでいく。ここには、人間関係への過剰な期待と、それがもたらす過剰な息苦しさをめぐって、相互に補強しあうような関係が成立している。
     評論家の山本七平がかつて説いたように、私たち日本人にとって「「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪」でありつづけてきたが(『「空気」の研究』文藝春秋、1977年)、とりわけ今日の若者たちのあいだでは、「優しい関係」を媒介にその絶対権がさらに高まり、急速に先鋭化しつつある。「優しい関係」が営まれる場の空気の決定権を握っているのは、そこに参加している一人ひとりの個人ではない。ましてやその場を取り仕切るリーダーなど最初から存在していない。そうではなくて、「優しい関係」そのものが、空気の流れを決定する圧倒的な力を持っているのである。


     ・   ・   ・   ・   ・   ・


     「優しい関係」を傷つける「KYさん」   (47ページ)

     そもそも、意図せずして「優しい関係」の規範に抵触してしまうのは、それだけお互いのコミュニケーションへの没入できていないことの証拠でもある。したがって、そのこと自体が、「優しい関係」の維持にとって大きな脅威とみなされる。「優しい関係」は、強迫神経症のように過同調をお互いに煽りあった結果として成立しているので、コミュニケーションへ没入していない人間が一人でもいると、その関係が実は砂上の楼閣にすぎないことを白日の下に晒してしまう。王様が裸であることには皆が気づいているが、それを指摘するようなしらけた態度を誰も示してはならない。「優しい関係」を無傷に保つためには、皆が一様にコミュニケーションへ没入していなければならないのである。
     このような意味において、昨今のいじめ問題は、誰もがコミュニケーションへ没入せざるをえない今日の人間関係のネガティブな投影でもある。昨今のマスメディアでは、コミュニケーション能力の未熟さから若者たちの人間関係が希薄化し、いじめをはじめとする諸問題の背景になっているとよく批判される。しかし、このように見てくると、実態はやや異なっていることが分かる。彼らは、複雑化した今日の人間関係をスムーズに営んでいくために、彼らなりにコミュニケーション能力を駆使して絶妙な対人距離をそこに作り出している。現代の若者たちは、お互いに傷つく危険を避けるためにコミュニケーションへ没入しあい、その過同調にも似た相互協力によって、人間関係を言わば儀礼的に希薄な状態に保っているのである。
     他方、昨今の学校では、体育祭や文化祭などの行事で生徒たちが異様なほどの盛り上がりを見せることも多い。皆で一体感を味わおうと熱く燃え上がり、ノリを大切にするその様子を眺めていると、かつての若者たちと同様に青春を謳歌しているようにも映る。人間関係を意図的に希薄な状態に保とうとしている彼らの日常とは正反対の現象のようですらある。しかしメンタルには本来ばらばらな人びとが、かろうじてお互いのつながりを保つために、コミュニケーションへ没入しあうことで場の空気を敏感に読みとり、ふるまった結果であるという点では、実は双方とも同じ根をもっている。
     「優しい関係」の下では、対人距離を上手く測れずに近づきすぎることは、その相手に負担をかけることを意味する。逆に、ノリをあわせて盛り上がらなければならないときに一人だけ冷めた態度でいることも、対人距離をうまく測れていないという点では同じである。その場の空気を乱し、相手に負担をかけることを意味する。どちらの態度を示すものも「KYさん(空気の読めない人)」と呼ばれて疎まれ忌避されるのは、「優しい関係」に抵触する行為という点では同じであり、そのバリエーションにすぎないからである。学校行事を一緒に成し遂げた結果として自然に一体感が生まれてくるというよりも、むしろ一体感を味わうことそれ自体が自己目的化しているように見受けられるのも、なにを差し置いても「優しい関係」の維持こそが、彼らにとって最大の関心事となっているからだろう。
     相手への負担の回避を最優先にするこのような傾向は、いじめについての彼らの語り口にも見受けられる。いじめの理由は、個人的なパーソナリティの問題として語られることがいまだに多い。「優しい関係」を維持していく上で、そのような語りが要求されているからである。たとえいかなる場合であっても、決して相手を傷つけないよう配慮しあうことが、「優しい関係」に要請されたルールである。そして、それを厳守することが、対人関係の地雷原でわが身を守っていく最善の策だと、彼らはお互いに信じあっている。
     いじめの被害にあった生徒たちも、そのターゲットとされた理由がこのルールへの不用意な侵犯にあることは熟知している。だから、そのルールをさらに侵してしまうことはなんとしても避けなければならない。自分の側に非があるかのような彼らの語り口は相手を非難するとさらに攻撃を受けかねないからという側面も確かにあるだろうが、しかしそれ以上に、もうこれ以上ルールへの侵犯者とはみなされたくないという、彼らの切実な思いを表明している側面が強いと思われる。
     2006年に岐阜県瑞浪市でいじめを苦に自殺した中学生が残した遺書には、「本当に迷惑ばかりかけてしまったね、これで、お荷物が減るからね」とあった。05年に埼玉県北本市で自殺した中学生の遺書には、「クラスの一部に勉強にテストのせいかも」とあった。いじめを苦に自殺した生徒たちが残した遺書には加害者の実名が挙がっていることはあるものの、彼らを非難する言葉はあまり見受けられない。自分は今まさに死を選ぼうとしているのに、その原因となった相手に対する憎しみや怒りの表現はあまり見当たらない。むしろ自責にも似た謙り(へりくだり)の言葉ばかりが並んでいる。それこそが自らに期待された語りであることを、十分に察知しているからだろう。残された文面からは、そのやるせない心境が透けて見えるようである。相手との衝突の回避を至上命令とする「優しさ」の圧力は、遺書を通じて死語の世界にまで及んでいる。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


     (考察)
     空気を読むという言葉がよく飛びかう昨今。不思議に思うのが、何故雰囲気を大切にしようとか、相手の立場に立って思いやりをもってとか、そういう言葉で表わされないのかということ。それが、この本を見てよく分かった。
     僕はこの本を見て何度心の中で大きくうなずいたことか。「個性を持たなければならないことに生まれる重圧」「何だか息苦しい友達関係」などに10代から30代の人たちの中でも、うなずく人たちは多いのではないでしょうか。
     この本で言われている「優しい関係」は、清らかな息苦しさを漂わせるカルト宗教に似ていると思った。教祖を絶対神として崇め、依存し、そこから少しでもはみ出そうとするものには修正という名のリンチを加える。そういった者を眺めることで自らのかりそめの安心を得る。日本人の多くもこれと同じようなことになっている。大多数が無宗教であるはずの日本人が入っているのは、「戦後民主主義教」。宗派は、「アメリカ万歳派」「反戦平和主義派」「伝統破壊進歩主義派」などなど多種多様。彼らを気狂いにさせる言葉は、「アメリカ?中国?韓国?そんなやつらの言うことなんかなんで聞かんといけんの?日本は日本じゃい!気に食わん奴らをぶっ飛ばすためにも世界一強くなっちゃるわい!核兵器持とうぜ!先の戦争を反省して、今度戦争やったら勝っちゃるけんの!」。なんか脱線してる気もするが、「優しい関係」が生まれた背景にはそういった社会思想が一枚噛んでいるのではないかということ。
     もちろんそれだけじゃなしに、前に記事にしたように母と子供の心を離れさせる間違った病院出産が二代にわたって行われたことも含まれると思う。今の若者が「どうせ、人と人は分かり合えないのさ・・・」とニヒリズムに浸っているのは、幼い頃に母親によって気持ちを分かってもらえなかった、という思いを大人になっても引きずっているから(例:「三つ子の魂百まで」)。その他にもビデオやゲームの登場によって、一人でもいくらでも暇つぶしができるようになったことなど、様々なことが重なっていると思う。
     著者は「優しい関係」について、一定の理解を示しているが現役世代の一人から言わせれば、それは間違いでやはり今の人間関係性はおかしい。安い「親友」。全体主義にも似た仲良しグループ。乾いた笑い。乾いた涙。やはり空ろだ。化学調味料の入った食べ物と天然モノくらい違っている。無菌室で育った心では、本物の喜びも怒りも楽しさも味わえない。
     もっと今の日本人は、喧嘩上等でお節介になってもいいのではないか。
     上の年代の方には、何のことだかよく分からないかもしれませんが、まぁ若者はこの本で書かれてあるようなことにかなりなってるんです。「近頃の若い奴の考えていることはよく分からん」という方にも、この本はオススメです。

    葉風 * 読み物(生き方) * 03:59 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

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