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「あなたを傷つける人」の心理 きずな喪失症候群 その18

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     ◎絡むエネルギーはあるのに、前向きなエネルギーはまったくない不思議

     私のところにこの三十五年間に相談に来た人は、数え切れないほど多いが、その中で本当に相談に来た人は一人もいない。皆相談という口実でもって、私に絡みにきた人ばかりである。つまり、近親相姦的に私に固着することが目的であった。
     もし私が宗教集団を作り教祖にでもなれば、彼らは簡単に信者になるだろう。そしてそのときには、教祖である私に近親相姦的に固着できるから、その限りでの心理的安定はあるのに違いない。
     その絡みエネルギーを見て人は、「これだけ元気なのだから、何かをすればいいのに」と言う。確かに彼らは「元気」である。しかしその元気はあくまでも「母なるものに対する固着」のエネルギーである。だからこれと思っった人に絡むエネルギーはものすごいが、日常生活のエネルギーはものすごいが、日常生活のエネルギーはまったくといっていいほどない。
     私のところに長文の手紙を書いてくる人がいる。四百字の原稿用紙に何十枚と書いてくる。中には六十枚くりあを書いてくる。普通の人ならたいていその分量を見て、「これだけのエネルギーを何で他のことに向けないのか?」と思う。
     それだけの長い手紙を見知らぬ人に書くエネルギーはあるが、自分の食事の用意をきちんとするエネルギーはない。服装をきちんとするエネルギーもない。部屋を片付けるエネルギーもない。会社に行くエネルギーもない。
     なぜだろうか?それは手紙をかくエネルギーは、近親相姦的衝動のエネルギーだからである。人に絡むのは、「母なるものに対する固着」のエネルギーなのである。癒しを求めているエネルギーなのである。近親相姦的衝動のエネルギーは部屋を片づけるエネルギーにはならない。
     人にうるさく絡むのは、近親相姦的衝動のエネルギーである。だから多くの場合に、絡まれた方は悲鳴をあげる。そのすさまじいばかりのエネルギーに「ほっといてくれー」と悲鳴をあげる。
     しかしそのすさまじいエネルギーは、決して生産的なことには向けられない。それは決して生産的な仕事のエネルギーにはならない。ストーカーのように相手にまとわりつくエネルギーはあっても、親身に犬の世話をするエネルギーにはならない。自分の家のお風呂を綺麗に掃除するエネルギーにはならない。
     鬱病者などもそうである。あのすさまじいエネルギーで、自分の苦しさを滔々(とうとう)と大演説する。「口角泡を飛ばす」と言う表現があるが、鬱病者などは自分が生きるのがいかに辛いかを語るときには、まさに「口角泡を飛ばす」話し方である。とにかく大演説である。そのすさまじいエネルギーに、聞いている方は圧倒されさえする。
     そこで聞かされているほうは、「これで一体何が鬱病だ」と思う。「オレのほうがずっと鬱だ」と思う。「こちらのほうが鬱病のあなたのエネルギーをもらいたいよ」と言いたくなる。確かに鬱病のほうが元気で、心理的に健康な人のほうが消耗しているということがよくある。
     しかしやはり鬱病は鬱病なのである。きずな喪失症候群の人がうるさく絡むのと同じで、彼らも近親相姦的衝動以外のエネルギーはない。それ以外のことにエネルギーを向けられないのである。自己実現のためのエネルギーはない。


     ◎「見捨てられる不安」をもつ子供は、返事をすぐにしない

     子供は見捨てられる不安をもって成長したときには、この近親相姦的衝動を満たしていない。「見捨てられる不安」というと、なにかすごいことを言っているように感じるかもしれない。「見捨てられる不安」という言葉が精神分析の本などでよく使われるので使っているのだが、これは次のようなことである。
     たとえば、「母なるもの」をもっている母親は、子どもが食事をしているのを見ていると、思わず声をかけたくなる母親であろう。「母なるもの」をもっている母親は、子供に「声をかけなさい」という規範よりも、自然と声をかけたくなる。「さー声をかけましょう」とは思わない。「母なるもの」をもっている母親は、子どもが食事をしているのを見て、脈絡のない声をかけてしまう。
     しかしもし子どもが嫌いな母親なら、自然と声をかけたくはならない。子どもが嫌いな母親は、守るべき規範に従って子供に声をかけるよりしょうがない。
     そうして子供の好きな母親から、「声をかけられたことがある」という体験がある子どもがいる。その子どもが見捨てられる不安がないといことである。つまり近親相姦的衝動が母親によって満たされている子供である。
     「お母さんに声をかけられたことがあるか?」と子供に聞いてみる。義務で声をかけた母親の場合には、子供は、一瞬考えてから返事をしている。義務としての、自己執着としての声かけ方の場合には、子供は考えてから返事をしている。考えてから返事をするのは、嘘つきと思われないかという恐れがあるからである。母親が義務で声をかける場合には、子供は考えてから返事をしている。

     そういう心境だから、なんだか知らないけれど生きるのが苦しいのである。その「生きるのが辛い」という心理状態で人に接するから要求が酷くなるのである。これがきずな喪失症候群の人の要求の酷さである。


     ◎求められることがない人は燃えつきタイプになる

     人は小さい頃、親から求められないと、生涯を通して「求められる存在」になろうとする。求められることで自分の価値を感じることができるようになる。
     そして自分を求めてくれる親に対して、自分の欲求を表現していくのである。それが愛情欲求である。自分のことを愛してほしい、つまり、自分に感心を持って優しくしてほしい、優しい言葉では話しかけてほしい、温かい目で自分を見つめてほしい、自分といることをいつも嬉しいと感じていてほしい、自分のほうに振り向いてほしい、自分に優しく反応してほしい、自分のすることを褒めてほしい、絶えず自分に注意を向けていてほしい、自分の言うことに耳を傾けてほしい、自分のことをかまっていてほしい、大変なときには同情してほしい、などなどである
     これを子供は親に求める。しかし子供の中には、親から無視されて育つ人もいる。あるいは愛どころか、逆にノイローゼの親から絡まれて心理的に病んでしまう子供も多い。親が子供に愛を求める。親子の「役割逆転」などと言葉で言うのは簡単だが、それは子供にとっては地獄である。いずれにしろこうして育った子供は、愛情飢餓感が強い。
     そんな人が誰かと恋愛する。誰かとかかわる。愛情飢餓感が強い人ほど、すぐに人とかかわる。それは、心理的に健康な人以上に「求められる存在」になろうと必死で努力するからである。求められたことがないから、求められる体験に飢えている。だれにでもいい顔をする。求められることで、人は自分の価値を感じる。燃えつきタイプである。愛情飢餓感が強い燃えつきタイプは、人から求められるための努力をする。
     愛情飢餓感が強い人ほど、すぐに人とかかわる。そしてかかわったとたんに、その人に「母なるもの」を求めはじめるのが混合型と言われる人である。つまり先に述べたようなことを、その人に求める。「母なるもの」をその人に求める。燃えつき症候群からきずな喪失症候群に変わる混合型の人である。
     しかし親の代わりをできる人は、この世にほとんどいない。愛情飢餓感が強い人は、絶えず「母なるもの」を求めている。あくなきほど求める。よくもここまで、と思うほど求める。相手が息ができなくなるほど求める。ただただ、求める。自分が相手に何かを与えるなどということは、逆立ちしても考えられない。とにかく執拗に、ただただ一方的に求める。
     しかも、自分が一方的に求めているということにすら気がつかない。それほど激しく求めているということである。自分が相手に求めているということ以外のことは、この世に存在してはならないのである。
     しかし、出会った人はその人に「母なるもの」を与えることはできない。愛情飢餓感が強い人の要求に応えられない。愛情飢餓感が強い人からすれば、求めても与えられないということになる。そうすれば当然その人を憎む。憎んだからといってその人と別れられない。その人に求めているのだから。その人を必要としているのだから。


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     燃えつき症候群は過干渉で甘えさせられたということで今まで書き込んできました。しかしそれは親が義務感や不安感から施したものに近い。いい親になりたいと。自然と子供に母なるものを与えられれば、後々誰が本当に見分けられるようになる。これは何度も書き込んだように、生まれてすぐ保育器入れられたり、母乳ではなくミルクで育てたりなどして自ら生んだ赤ちゃんという実感が薄くなってしまったのではないかと思う。巣から一度落ちてしまったひな鳥は親鳥から育ててもらえないように。
     また、この本では書かれていないけど父親などの保護者が強くてしっかり思いやりを持ちながら躾をされて自身を守ってくれるという安心感を与えてもらったかどうかというもあると思う。しかし、その父親の想いも「母なるもの」をもらっていないとおちおち受けとめられないのかもしれない。ここら辺、訂正します。あくまでこれらは推し量ったことに過ぎないですが。
     ここまで書き込みましたが、親のせいにできるのはまだ一人で生きて行く力を持たない、中学生までだと思います。どんな親にしろ、どんなにいたたまれなくても、どんなに恨みがあろうとも、自らの力で生きていくしかないですからね。心理分析はその助けのひとつに過ぎないです。

    葉風 * 読み物(生き方) * 19:50 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

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